企業や個人に実態が伴う前に大義が必要なのか

企業や個人に実態が伴う前に大義が必要なのか

2022/4/3

枕にかえて

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。
個人が媒体化しやすい時代になってからか、崇高な理念を掲げて邁進する企業や個人が増えたように見受けられる。特に若い人たちは起業でも個人での発信においても、世の中に向けて大義を振りかざすような発信するからこそ投資や注目を集められる世界線にいることが前提となった。
最近では企業における「PURPOSE(パーパス)」と評される目的や意図など、何のために組織や企業が存在するのか、中で働く人たちは何のために働いているのかといった存在意義を示すことばがネットに限らず各種媒体でも視認されるようになって3、4年ほどだろうか。
個人でも組織と同様、”なぜ生きるのか”とか”どうして働くのか”みたいに個人的な生き甲斐みたいなものを表出させ、それを実践しているっぽい人たちが多くのフォロワーという金魚の糞みたいな人たちを獲得し、身銭を稼ぐことや小銭稼ぎをするために利用していたりする。
少しいいすぎなように見えるこれらの記載も、誰に気を使うわけでもなければ大したことではなく事実として認識されていることだ。個人が媒体化し発信内容が可視化されるようになったため、良くも悪くも「目立ちやすく」なったからこそ発生している事案だろう。
その結果、それまでには各種マスメディアを通じて大衆に届けられていた情報が小さな範囲にまで細かく行き届くようになった反面、内実が伴っていない人間がそれらしいことを述べては上記したような影響力のあるユーザーに小判鮫の如く寄生し、類似したようなフォロワーを食い尽くすような地獄絵図が展開されている。
それらを見た内実が伴ってもいない若者たちが何かしらの情報を発信することをし始めた結果、内実が伴っていないことに気づき自身に絶望する若者が増加したぐらいで、それが何かしらの功績を果たしているのかといえば何にも生み出してはいない。
情報発信をすることは「=世間に認知させることを許容すること」である。
つまり、何者でもないのに何者であるかの如く振る舞うことを世間に喧伝することを希望するしないに関わらず宣言するのと同義だ。結果として行き着いたのが匿名やハンドルネームを利用した顔出しなしでの運用なのだろう。
この点は企業においても同様で、あらゆる大義を掲げることで”それらしく見える”ため、”それらしく振る舞うこと”を求められるようになり、いつしか主従逆転し、偽らざるを得ない状態に陥ってしまう。
個人でも企業でも尊重されるべき姿勢や態度とは何なのだろうか。そんなぼくからしたらどうでもいいことを考える日にしてみようと思う。

▶︎ 大義から入ることの功罪

たとえば、”Purpose経営”のような、まさにイシキタカイ族が好きそうな潮流や潮目を汲んで発信される企業態度は、かなり崇高っぽさを内包している。なんだか関わる人たちをすべて幸福のるつぼに引き込んでしまえるかのような勘違いをさせるだけの力を備えていそうに思える。
なぜなら、それだけ引き込むだけの力と甘味な魅力を実装しているからだ。
多くの人はそれらの組織に向けて好意的な視線を注ぎ、中で働く従業員を外部から羨望の眼差しで見つめては自身も就労の機会がないかと注目するわけだが、何よりその組織は大上段に構えた理念を体現すべく必死に自分たちが抱く”社会的に大きく意義のある事業”だからであると認識する。
その自己認識は、自分たちが取り組むことを普及させ、拡大させることが社会をよくするのだと心底考えることにつながり、いつしかその姿勢や態度を表出させ続けることこそが自分たちのとるべき態度だと前提認識化させる。
一見すると素晴らしい企業態度や従業員姿勢のように見受けられるが、内実が伴っていないことがあるのではないか。実際にはそれほど社会に貢献するような事業でもなんでもなく、成長も見込めるようなものではないのにも関わらず、広げた風呂敷を畳み込めなくなってしまう。
追い求めていた理想は虚像に成り下がり、いつしか虚像ですらなくなってしまい、自分たちの存在意義などあり得ないのだと認識するに至る。当初抱いていたPurpose内で語られていた存在意義が自分たちの存在意義を結果的に否定することになる自縄自縛を生み出し苦しめることになってしまうこと。
これこそが大義を第一に掲げてしまうことの功罪であり、その思想は非常に危険であるとぼくみたいな「実現性の低い理想を掲げることをしない」非力な現実派が抱く人生観だ。

▷ 内実を伴わせること

一方、大した理念だとか掲げることもなく、一見すると社会的に何の役に立つのかわからない事業から手をつけはじめる事業者も存在する。代表的なものを挙げるとするならば、社会的に意義など実感できそうもない出会い系サイト的なサービスだったのにも関わらず、いつの間にか世界の覇権を握るようになった、「Meta」と呼称する事業者が米国にはある。
これまで上記してきたような創業間もない頃から大義を掲げて事業を推し進めようとする事業者とMetaのような当初は崇高な理念など持ち合わせておらず、ただただマッチングサイト的な利用を推し進めることで質実剛健に領地を拡大するような事業者もある。
双方を比べると、前者には社会的な正義のようなものを纏っているからこそ感じ得る「大義」感があるが、注目を集めやすいがために結果として志半ばにして頓挫しかねないことが多々ある。新興事業者として旧来的な事業者たちから応援をされるだけでなく、時として「少しでも気に入らないことがあれば潰される」なんて野蛮なことを耳にすることも少なくはない。
反面、誰の意義になるのかもよくわからないものを提供していたものの、企業体力や事業推進力といった面で内実が伴わせ、注目を集めることもなく粛々と”自身の成長を優先させた”結果、なんだかよくわからない機会に恵まれ、あれよあれよと成長を遂げては崇高な理念を掲げた前者をいつの間にか追い抜くような事態にだってなりかねない。
我々はインターネットの波に乗ることによって誰でも自身を媒体化させられるようになり、いつどこでもこの文章のようにどうでもいいような内容を発信できるようになってしまった。その反面、発信をしないことや意義、引いていえば内実を伴わせることを疎かにしてしまっているのではないか。

▷ 地味でいいじゃないか

結局、ここ最近は各種媒体に取り上げられるような大義名分を掲げることが是で、それがなければ事業経営や運営をすべきではないかのような風潮が見られる。
しかし、冒頭から散々触れてきたようなパーパスなるものは、2019年08月19日に米国の経済団体であるBusinessRoundtable:BRTが公表した「StatementonthePurposeofaComoration」によって株主資本主義や株主第一主義を「反省する」ことを表明している点は無視できない。
企業であろうが個人であろうが関係なく、そもそも自分や自分たちが発信をすることの意義とはどこにあるのか。はたまた、そんなものがあるのかといった点で思考されるべきものであって、何の理由もなしに媒体化しては媒体からの取材等にそつなくこなすことが上手になったところで何の利点があるのか。
結局、大義から入ると大義が先行しすぎるため、実態が伴わないことが増えてしまうのではないか。
個人でプチインフルエンサーっぽいユーザーを見かけるたびに、大した内容でもない投稿に多くの反応を得られている様子を見ていると非常に物悲しく、また「寒い時代」であると認識せざるを得ない。
企業でも同様で、大義をいかに発露させるのか、それを扱われるのかといった態度を表明し続けるために事業開発や事業成長を遂げようとする姿勢につながってしまうため、本来的にいえば語る必要のないパーパスなるものも対外的に表出せざるを得ない状況になってしまっているようにも思える。
果たして、そこまでそこまで人目に晒されることが本質的に必要なのかどうかを問いなおしてもいいのではないか。企業ならまだしも、個人においては媒体化できるからといって情報を無闇に発信をするのではなく、少なくとも発信できるだけの平衡性が必要条件であることを指摘する大人がいてもいいのではないか。
つまり、地味に地べたを這いつくばりながらでも地道に自己成長自己拡大を果たし続ける方が、長期的に見た際には返戻が大きいのではないか、なんて話である。

▷ SNSでは即時的な反応を期待しすぎる

結局、上記してきたようなことはSNSが全盛であるからこその功罪だろう。
SNS上で多くの反応を集めることは瞬間的な出来事であることは誰もが認識できることであり、たとえば視聴回数の多いYouTuberの動画も単体で再生回数が回っているものだと、それなりに過激な、もしくは何かしらの悲哀を伴っている他人だけでなく自己不利益を被るような内容であることは少なくはない。
いわゆる迷惑系などと呼ばれる配信者たちが行っているのは、他者の感情を強制的に引き上げるような行動を動画媒体に投下することで瞬間的な情動を引きつけることによって成立するものだが、その情動に応えようとするためには過激であり続けなければならない。
常に自己記録を更新し続けるような行為を繰り返さなければ、次々と現れる配信者に遅れをとってしまう可能性が高い。そうなれば自分自身が得てきたSNS上の知名度や身銭稼ぎの手段が限定化されてしまう。
結果としてネット上にどうしようもない誰のためにもならないようなコンテンツが生み出されては消費されるサイクルに入るわけだが、個人で起こっていることが企業でも起こっているのが現在の大義名分を掲げる姿勢や態度なのではないかというのが今回の最終的な主張だ。
政治家が大衆迎合することを「populism(ポピュリズム)」と評されるが、個人や企業においても大衆迎合した結果、自分たちの存在意義が他者依存型の自発的な意志や思考が介在しないものになってしまっているのではないかと思考せざるを得ない。
短期的な成果を追い求めること、目先の注目や賞賛を得ること自体は身銭を稼ぐために必要なことかもしれないが、いかにして長期的な視点でメタ認知しながら「寝かせられるのか」が今後は重要になるだろうし、ドンドンとインターネットが閉じられた世界になっていくのだろうことが予見される。
こんな話を妻さんにしたところ、「どうでもいいから早く洗濯物を片付けろ」といわれ叱咤された。やはり他者に向けて発信を繰り返しては、その反応を期待するのではなく、果たすべき事柄を見つめて自己成長を繰り返さなければならないようである。
ではでは。
えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

改めてサイバーエージェントのような媒体企業がパーパスを述べるとどうなるのかを見れる数少ない記事であるため、多くの人の目に触れてほしい。企業の持続的成長を遂げるためにこそパーパス制定の最大効用があるとしているが、持続的に成長するからこそパーパスが生まれるのか、パーパスがあるからこそ持続的な成長を実現するのかは考えたいところである。

何でもかんでも発信を繰り返しては誰かからの短期的な情動に任せた反応を期待し続けることは、結果的に何も残さない点は文中で記載した通りだが、地味であればあるほどに虎視眈々と戦況を見つめるのに適しているため、長期的な勝利を得ることが可能なのではないかと考えざるを得ない。

村上さんが記載するように、個人ごとに幸福の解像度を上げることの方が重要であるとぼくも思う。対外的に発信を早期から繰り返した結果、他者評価だけを気にしてしまうような状態に陥るよりも、自己評価と他者評価の狭間をゆらゆらと揺れ動きながら自身を見つめられた方がステキなのではないか。

▷ 本noteに関連する紹介したい書籍

結局のところ、誰にとっても便利で使い勝手の良いサービスをコツコツと提供と改善を繰り返しながら取り組んでいる点でいうとamazonが身近にある。巷間、会議の仕方だとか利益の上げ方だろうがいろいろと出てくるものの、主体的にamazonが出しているわけではない点は注目すべき点だろう。

▷ 著者のTwitterアカウント

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。

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